1981年、パリ。のちに医療最高責任者となる若き日のパスカル・レイハムは、ディスカール・デスタン仏大統領が提唱するインドネシアとの関係強化政策に伴い、増加が見込まれる在インドネシア・フランス人の現地医療スタッフに選ばれました。
希望を胸にジャカルタ入りしたレイハムでしたが、それも束の間、デスタンが次期大統領選に敗れ、その後インドネシア政策への予算が打ち切られてしまいます。仕方なく彼は、フランス大使館の一角のガレージを借りて現地に住むフランス人のために緊急医療を開始しますが、当時のインドネシアは採鉱業や石油産業など様々な多国籍企業が押し寄せてきた時代。いつしかレイハムは、ジャングルの鉱山や沖合の石油プラットホームなど遠方で働くフランス人を支援する巡回医となります。
しかし、その時彼は大きなショックを覚えました。なぜなら、ほとんどの企業がアシスタンス会社と契約しているにもかかわらず、それらのアシスタンス会社がヨーロッパを拠点としていたため、多くの場合、患者は治療を受けるために20時間もかけてフランスに帰国しなければならなかったのです。彼の切実な思いは、やがて幼馴染のアノー・ヴェシイエ(現・会長 兼 最高経営責任者)の心を動かしました。
高校卒業以来別々の道を歩んでいたふたりは、 “緊急医療”という共通の目標に向かって結実し、1985年シンガポールに会社を設立。アジア太平洋地域から医療アシスタンスを開始し、今日の礎を築くことになったのです。
沿革
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1989 -1994 |
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創業者 略歴
アノー・ヴェシイエ(創業者 兼 会長 兼 最高経営責任者)
パリ政治学院を卒業後、仏系企業で財務担当者、米国コンパス社代表を歴任。1985年、パスカル・レイハムと共にインターナショナルSOSを設立し、東南 アジアでの海外進出企業や旅行者への緊急医療サービスを開始。アジア地域、アメリカ、ヨーロッパへと急速に事業を拡大。
在シンガポール時代、アリアンス・フランセーズ副会長、フランス・ビジネス・センター所長を務め、1997年フランス・シラク大統領よりナイトの称号を授与される。
パスカル・レイハム (グループ・メディカル・ディレクター)
大学メディカルスクール卒業後、SAMU(ヨーロッパ最大級の一次救急支援組織)にてパリ空港の救急医として救急医療の経験を積む。在インドネシア・フランス大使館の医務官、フランス人向け医療コンサルタントを歴任後、1985年、アノー・ヴェシイエと共にインターナショナルSOSを設立。
航空医学分野、アフリカ地域・旧ソ連をはじめとする遠隔地での医療設計分野等において、数多くの臨床医療及び医療サービス経験を持つ。